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曹操注解 孫子の兵法

松下政経塾へ(2)

松下政経塾へ行こう☆☆☆その2

ワシが政経塾と関係した原因は、三期生の古山和宏さんが総選挙に初挑戦して落選し、ブレーンを求めて有志の勉強会を立ち上げようとしていたこと。

そこにワシはまんまと引っかかってしまったのだ。
運命だな。本当に。

それは1991年のことだ。
幸之助さんの逝去(1989年)から2年が経過していた。

現在、古山さんは松下政経塾の塾頭として、後輩とともに宿舎に寝起きして、文字通り寝食を共にして指導に当たっている。
これも運命、としか言いようがない。

さて、古山勉強会に参加した私は、おかしなことに気がついた。
古山さんの口から、松下幸之助さんの政治理念なり、政治目標なりがあって、それが語られるものと思っていた。
それがなかったのだ。

思わず、ワシは突っ込んだ。
「幸之助さんの政治思想はどんなものでしたかね」

すると古山さんは明らかに当惑した表情を見せた。
「いや。実は私も深く調べたことがないんだ。
政経塾には教科書のような冊子があったんだけど、みんなあんまり読みもしないで自由奔放に政治の議論をしていたんでね」

ますます私は批判的にたずねた。
「そいつはいけない。ただ今、これから幸之助さんの本を手当たり次第に読んで、政治に対する考え方をキチッとまとめておく必要がありはしませんか。
例えば、政府の規模を小さくするとか。
政経塾の人たちが、幸之助さんの思想を知らないで、自由奔放にやりすぎると、幸之助さんの理想とかけ離れたり、あとで食い違いが判明したりして、その矛盾を世間から批判されたりしないんですかね」

さて、ここからが古山さんの偉いところである。
すぐにニコニコして、こう言ったのだ。
「それでは、さっそく二人で勉強しましょう。協力してくれますね」

あのときの古山さんの素直な反応。
ここから全て始まったのである。

そして、私は松下幸之助の政治思想という巨大な課題を背負うことになり、日本新党の結成までに、その仕事にやっと一区切りをつけた。
細川内閣の総辞職直後、1994年に出版したダイヤモンド社《松下幸之助・日本はこう変えなはれ》は今は絶版になっているが、これが当時の研究をまとめたものである。
興味のある人は大きな図書館で探してみてくれ。

松下幸之助さん直伝の、素直な心、でワシを政経塾の活動に引っ張り込んだ古山さんも偉かったが、さらに偉いのが現・杉並区長の山田宏さんである。

もし彼がいなければ、日本新党も、細川内閣もなかった。
当時の政経塾の関係者はすべて、この事実を確認するであろう。

1991年当時、まだ政経塾の政治家はなかなか当選できなかった。
週刊誌にも、経営評論家の語り落ちにも「松下政経塾は完全な失敗だった」と書かれるぐらいだった。

ある財界雑誌には「幸之助さんは政経塾を設立して晩節を汚した。あれほどやめとけと私は忠告したのだ」と最悪の批判記事。
ある政治評論家は「幸之助さんといっても、しょせんは電器屋さん。政治オンチ。何もわかっていなかった」と笑い者にしていた。

そんな嘲笑と非難に負けて、同調するような文章を書く塾生OBもあらわれていた。

「幸之助さんと病院で会ったが、声が小さくて何が何だかわからなかった。感激して感涙している先輩たちが不思議だった」

「政経塾は、ものすごい大金をかけて、缶詰め一つを手作りするような、そんな場所であった」

こういう連中を「無縁の衆生」という。
目の前に仏さまが歩いていても、知らずに通りすぎてしまう人々。
福の神の大黒さまに出会っても、水をかけて追い出してしまう人々が、世の中には実際にいるのだ。

そこに都議会議員の山田宏さんが首都圏の塾生OBに呼びかけ、勉強会をはじめた。
このような政経塾に対する世間の冷酷な風評に、最もストレスを感じる立場であった。
当時、海部内閣が政治改革を実現できないまま倒れたことに、山田さんは政界大乱の予兆を敏捷に感じたのであろう。
勉強会をやりながら、熊本県知事の細川護煕さんなど、松下幸之助さんの古い人脈を掘り起こしていたところであった。
このことが日本新党の結成に結びついていくのだが、今は長くなるのでやめておこう。

古山さんが勉強会をはじめたのも、山田さんの会に出て意見を述べるために「自主的に予習をしよう」という思いからであろう。
その古山さんは、私が述べた趣旨のことをそのまま山田さんにぶつけたらしい。

会ったことのない人は、わからないだろう。
山田宏の凄みは、動物的ともいえる直感と、超人的な決断力、行動力である。
まさしく、彼こそ、政治の天才である。
高杉晋作の生まれ替わりといっても、決して言い過ぎではない。

「幸之助さんの政治思想を、この際、徹底的に再検討する必要があるんじゃないですか」

山田さんは、この古山さんの意見に直感的に飛びついた。
「古山がやれ。幸之助塾主の政治理念研究担当だ」

さっそく古山さんから連絡が来た。
「約束したよね。協力してくれ」
「それじゃ仕事か終わった夜になるけれど、二人で徹夜でやりましょうか。資料を手当たり次第、集めといてくださいよ」

もう日付も忘れたが、松下幸之助の政治思想研究は、こんな偶然だらけの経緯から始まっているのである。

もう一つの運命的な偶然がある。
なぜ、このワシが幸之助さんの思想研究を引き受けたか。

当時の政経塾は、知れば知るほど危機的な状況であった。
古山さんが素直に「一緒にやってくれ」と頼まなかったら、ワシは政経塾に関わる前に、自分の静かな研究生活にもどっていたであろう。
このころの活動といえば、街頭のビラ配りがほとんどであったから。
しまいには山田さん自身が、遠くをみつめながら、「俺たち、何でこんなバカなことやっているんだろな」とボソッと泣き言をこぼす始末であった。

それだけ、政経塾に対する世間の風当たりは強かった。
先輩の都議が山田さんに「何をバカなことをやっているんだ」とクサす場面も、「オレの選挙区を荒らし回って、政治改革を訴えるとは何のつもりだ」と締めつけることもあったであろう。

まあ、今から考えると、ビラ配りのメンバーも大した顔ぶれであったぞ。
ワシと古山さん以外は、みんな国会議員や地方議員に当選して活躍した面々だからな。学生のボランティアも市議会議員や議員秘書とかになった。
政経塾職員だった河内山さん、山口県の郷里、柳井市に帰って、県内随一の名物市長になった。
同じく、郷里の佐賀県多久市で市長になった横尾さん。

彼らも新宿西口や、有楽町マリオンで演説したり、山田宏・杉並区長や中田宏・横浜市長、松沢成文・神奈川県知事、そして伊藤達也大臣と一緒にビラを配っていたのだ。
今となっては、思い出だな。
松沢さんが「政経塾のDNAは肉親よりも濃い」というのはこれなんだよ。

しかし、私は個人的にも、松下幸之助さんに関心を持っていた。

それというのも、小学1年生のとき、父親に連れられて商工会議所の講演会に出かけたこと。
たまたま母と妹が自宅に不在で、子ども一人で留守番ができないから、「連れていかれた」というのも全く偶然だった。

その日は、何と松下幸之助さんが講師だったのである。

父は座席の最前列に座っていた。
幸之助さんは秘書をしたがえて、会場正面入り口から舞台に向かって歩いてきた。

幸之助さんの眼に、小学生の私はどんな印象を与えたであろうか。
とにかく、背広姿の男性ばかりの会場の最前列に、小学生がチョコンと座っていたのだ。

松下幸之助さんは、私を発見するや、その手をさしのべて、私の頭をなでた。数秒の出来事である。

その後で、舞台に上がって講演をしたのだろうが、小学生に話の内容がわかるわけじゃない。
しかし、父は興奮した。
「お前は幸之助さんに頭を撫でてもらったんだ」

松下幸之助という人物が何者であるかを知る年令まで、その記憶だけがつながっていた。
だから、古山さんにも、山田さんにも素直についていったわけだ。
私自身が、松下幸之助とはどんな人だったか、を知りたいと思っていたからである。

落語家の春風亭小朝は、やはり幼児の時に、名人・桂文楽に頭を撫でられて、落語の道を決意したという。
政治経済学者のマルサスは、幼児の時に、彼の父親を訪問したジャン・ジャック・ルソーと出会っている。

実は、幼児の私は、政治評論の大家、細川隆元さんにも頭を撫でられたことがある。
細川隆一郎さんの愛娘、細川珠生女史にその話をしたら、それも驚かれた。
「それはめずらしい。おじさんは子ども嫌いで、私も頭をなでられた記憶がないんですよ」

松下政経塾で本格的に研究をはじめたとき、日本興業銀行(当時)の河上財団から講演を引き受けたが、理事長は中山素平先生だった。
中山理事長は幸之助さんのよき相談相手だった。
戦後まもなく、松下電器がビクターを買収したときも、中山先生が担当だった。

「何でまた幸之助さんの研究をやりはじめたのかね」
「実は。…私は小学生のときに、幸之助さんに頭を撫でられたことがあるのです。それで」

さすがの中山素平先生もあっけにとられ、ビックリされていた。
そこで冗談のつもりで言った。

「せっかく、中山素平理事長ともこうして会えたのですから、ぜひ先生にも私の頭を撫でていただきたいものです」

そんなことで、私は大げさに頭を下げ、まわりの一同は爆笑した。

すると理事長は…
神妙な表情で、大人の私の頭を撫でたのである。

笑いが止まった。
周囲の人々は、さらにびっくりしたであろう。

解釈は自由だ。
「座興が過ぎる。あんな若造に理事長がそこまでやるなんて」
そんな偏屈な発想をする会社人間パーフェクトもいたであろう。

中山素平先生は、ワシの話で、松下幸之助さんの圧倒的な偉大さに改めて驚嘆していたのだ。
一瞬ではあったが、松下翁に対する思慕からの行動だった。

当のワシは、笑って相手にされないだろうと思っていた。
だから、中山先生と松下翁のただならぬ心のつながりを、はからずも体感することになったのだ。

その後、光輝ある日本興業銀行の歴史を汚した私欲にまみれた会社人間たちや、ともに語る必要のない小人物たちには理解はできない世界なのだ。
知ることも、考える必要もなかろう。ハッハッハッ。
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自慢たらたらの身の上話が緒を引いてしまったな。
明日は前回につづいて、逢沢一郎外務副大臣の話にひき返そう。


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